道徳教育がもたらすこと

文科相が「心を育む5つの提案」(2月3日10時48分配信産経新聞 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090203-00000536-san-soci)をしたとして、下記のニュースが流れていました。

「塩谷立文部科学相は3日、4月から先行実施される小中学校の新学習指導要領で道徳教育が重視されることに絡み、「先人の生き方に学ぶ」などとした「『心を育(はぐく)む』ための5つの提案」を発表した。提案は(1)「読み書きそろばん・外遊び」を推進する(2)校訓を見つめ直し、実践する(3)先人の生き方や本物の文化・芸術から学ぶ(4)家庭で、生活の基本的ルールをつくる(5)地域の力で、教育を支える。生活の基本的ルールについて、塩谷文科相は「私の提案」として、「いじめるな」「うそをつくな」「人に迷惑をかけるな」などの具体例も挙げた。」

もし、本当にこれが実行されるとしたら、道徳教育によって子どもたちの道徳心が削がれちゃうじゃないか、と思いました。

忘れられがちなんですが、原理的に考えれば、道徳に最終的な根拠はありません。

たとえば、上記の引用文にある「うそをつくな」という禁止命題は、一見するととてもまともだし、僕も全否定するつもりはまったくないです。

しかし、「どうしてうそをつかないことが正しいの?」という問いが一旦立てられると、この禁止命題はとたんにあやしくなることがわかると思います。

この問いに答えようとすると、論理的には無限に退行してしまって、いつまでたっても正しい理由を確定させることはできないためです。

だから、道徳教育は、論理の問題ではなく、情緒の問題になってしまって、どうしても理屈ぬきで押しつけるものになるでしょう。

しかし、道徳は重力のような自然法則とは異なりますから、「いじめるな」「うそをつくな」「人に迷惑をかけるな」と押しつけられても、それに従うかどうかは結局のところ本人の自由です。

それは、道徳を教える先生たちにもあてはまることです。

先生たちは、子どもに「うそをつくな」と言いつつも、たとえば、どうみたって才能のかけらもない子が落ちこんでいたら、やっぱり「お前ならできる!」とはげましたりするわけです。

子どもたちは、道徳を習ったしりから、それとは異なる行動をする先生たちの姿を目の当たりにするわけですから、当然のことながら「こりゃ何か変だぞ」と思うことでしょう。

かといって、先生が道徳にしたがうことを尊重して、才能がなくて落ちこんでいる子に「お前は努力してもどうにもならないぞっ」と言ったとしたら、それはそれでおかしな話しにもなりかねません。

どんなに勉強のできない子どもでも、大人のちぐはぐな対応はすぐに見ぬけますから、先生が道徳を説けば説くほど、子どもたちは先生が実は道徳をそれほど重視していないことに気づくわけです。

すると、どうなるか?

答えは簡単で、おそらくたいはんの子どもが先生や周囲の大人たちをバカにしはじめます。

つまり、道徳教育によって反道徳心が芽生えてくる、という構図が生まれるわけです。

もしかしたら、先生のおかれた複雑な立場を思いやってくれる子どももいるかもしれませんが、上記のニュースにあるような道徳は理屈ぬきで押しつけられるものですから、その「反動」でそうしたやさしい気持ちは打ち消されるだろうと思います(だから、もし思いやってくれる子どもに出会ったら心から感謝しましょうね)。

もちろん、僕は、道徳教育なんてくそくらえ!と言っているわけでは、まったくありません。

道徳は守った方が人生を全うしやすいでしょうから、そうである限りにおいてそれは守ったほうがいいし、そう教える必要もあると思います(構造構成主義的に言えば、道徳とは関心相関的です)。

また、本当の道徳とは、規範意識が成立する条件について、とことん合理的に考える営みですから、実は、お仕着せのルールを学んで心を育まそうというようなものではありません。

自分の頭で、自分や他人が従う規範を考えぬくこと、それが道徳教育の真髄です。

だから、もしかしたら、ニュースで言ってる道徳教育は、実のところ道徳教育ではなくて、子どもたち自身が考えることを辞めさせるための教育なのかもしれないね。

むしろ、先生方がバカにされ、子どもたちの道徳心が削がれるだけの道徳教育(じゃないかもしれないけど)なんか止めてしまって、子どもたちと先生が勉強(よみ・かき・そろばんの習得)に専念できる環境を整えてあげることの方がよっぽど必要なんじゃないか、と思います。

「学校は勉強するところだ」という基本を思いだし、国家が個人の心を育もうなんて大それたことはしない方がよい、と自覚するときではないでしょうか。

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