移植法改正(A案)

移植法改正(A案)が採択されました.

今回の移植法改正は,死の定義を変えるぐらい重大な議論なのに,審議に十分な時間もかけられず,政局とマジョリティーの気分(マイノリティーの意見はほぼ黙殺)によってなかばごり押しで通された印象がとても強いです.

脳死臓器移植について,僕は研究論文でしっかり論じようと準備も進めてきたのですが,あれよあれよと言う間にA案が採択されてしまいました.

自分の作業遂行能力の遅さと審議の超絶スピード感(拙速)にかなり驚いていす.

今回の移植法改正は,時機を失した感もありましたが,E案(現行法と同じ.ただし,子ども脳死臨調を設置し,1年間かけて議論を深める)に落ちつくのが妥当であろうと思っていました.

ところが,実際には一番でたらめなA案が採択されました.

本当は研究論文で述べたかったのですが,こういうのはタイミングも大切であると判断し,ごくごく簡単にですが僕の見解を述べておきます.

でももしかしたら,脳死研究者&実践家でもない素人が口出しするな!という人がいるかもしれません.

でも,脳死臓器移植は人の死にかかわる問題であり,後で述べるように死は社会的ルールに根拠を持つものですから,日本社会を構成する一員として死の定義のコンセンサスに寄与するためにも素人が口出しする必要がある,と僕は思うのです.

さて,本題です.

僕の基本的立場は「脳死臓器移植それ自体やめた方がいい」というものです.

当然,僕には脳死になったときに臓器提供する意思はまったくありません.

正直なところ,将来的に脳死臓器移植はロボトミーのような扱いになるのではないか,とさえ考えています.

さて,まずA案の基本骨格ですが,(1)脳死は一律に人の死である,(2)本人が明確な拒否を示していない場合は家族の同意で臓器提供が可能である,(3)臓器提供の年齢に制限はない,というものです.

この骨格のひとつひとつに対して,僕は疑問を持っています.

まず,(1)について.

厳密な脳死判定を受け,脳死であると認定された脳死者でも30日以上にわたって心臓が動きつづける例があります.

なかには1年以上も拍動しつつけた例も報告されています.

これがいわゆる「長期脳死」です.

長期脳死の脳死者は成長することが確認されています.

身長や髪の毛,爪が伸びるんですよ,脳死者が.

また,厳密な脳死判定を受けて,脳死者と認定された人が,身体を複雑に動かす例があります.

そう,「ラザロ徴候」です.

臓器を取りだすとき,暴れまくるんですよ,脳死者が.

普通,脳死は脳幹を含めて脳のすべての機能が不可逆的に死んでしまった状態です.

すべての脳の機能が停止したら,以上のようなことが起こるとは考えられません.

つまり,脳死判定が厳密に行われても,本当に脳死に陥ったかどうかはよくわからないのです.

百歩譲って脳死判定で脳死であると確実に割りだせたとしましょう.

でも,脳死は本当に人の死なのでしょうか?

上記の例を踏まえたら,たとえ厳密な脳死判定によって脳死であると認定されたとしても,「脳死は本当の死ではない」と考えた方が,僕には合理的なように思えます.

死はプロセスですから,何らかの基準で一律に「これが死だ」と確定することはできません.

でも,僕の感度では,死者が成長したり,暴れたりすることはありません.

少なくとも,脳死よりも三徴候死の方が,死の実感にみあったものであると考えます.

したがって,脳死が一律に人の死であると決めるのは間違いである,と僕は考えています.

次に(2)について.

現行の移植法は,臓器提供できるかどうかは自己決定できるというものでした.

ところが,A案は本人が明確な拒否を示していない場合は家族の同意で臓器提供が可能である,というものであり,本人の自己決定権がまったく無視されています.

すなわち,A案は,明確な意思表示を行っていない人は,潜在的に臓器提供に同意したとみなす,という論理であり,これほど端的にデタラメな法案はめずらしいと思います.

そもそも,積極的に自己決定することと,自己決定したとみなされることは,まったく違うのです.

「みなし」で自己決定したと判断できるなら,もはや何でもアリです.

だって,これがOKなら「信仰を明確に示していない人は,●●教の信者になったとみなします」とか「支持政党を明確に示していない人は,■■政党の支持者であるとみなします」という法律でも作れることになりますからね.

そんなアホなと思う人もいるでしょうが,この例は同型の理屈からなりたっていますから,それほどアホでもないのですよ.

なので,本人の意思が不明,あるいは拒否がないからといって,潜在的に自己決定しているとみなすことに,僕は反対です.

最後に(3)について.

先ほどの長期脳死は,子どもが経験しやすいとされています.

ところが,子どもは自己決定できないことも少なくありませんから,家族の同意で自己決定したとみなされることになります.

しかし,厳密な脳死判定で脳死と認定されても,本当に死んでいるかどうかは実はわからないのです.

また,子どもと言えども,家族が勝手に臓器提供を決めるのは,自己決定権の原理に反します.

つまり,臓器提供の年齢を無制限にすることは,(1)と(2)の問題を同時に踏むこととなります.

僕は(1)と(2)に反対ですから,当時に(3)についても反対ということになります.

もちろん,僕は現行法にも反対です.

現行法は,本人による死の自己決定権を認めていますが,死はプロセスであり厳密に基準を定めることができない以上,それは社会的ルールによって判断されることになります.

しかし,社会的ルールは,個人の自己決定によって選べるようなものではありません.

「朝食に何を食うか」を自己決定することと,死の自己決定は全く違うのです.

また,人の死が脳死と三徴候死にしぼられる存在論的な根拠もありません.

もし,死が自己決定できるならば,「俺は灰になって100年たったら死んだことにする」などのような無茶苦茶な話しも呼びこんでしまう可能性も生みだされます.

普通,自己決定は「私は●●します」という意思表示によって支えられた能動的な権利のことです.

社会的ルールによって決めざるを得ない死は,この「私は●●します」という能動性にうまくなじまないと考えられるのです.

とはいえ,移植法改正(A案)は採択されました.

これからしばらくは,このA案のもとで脳死臓器移植が推進されるでしょうが,以上ごく簡単に述べてきたように今回の改正は端的に間違っていると思われます.

なので,今後さらに脳低温療法,再生医療,異種移植,人工臓器移植などの技術が発展してきたら,おそらく脳死は一律に人の死であるとするA案は修正されるでしょうし,もしかしたら後世になったら脳死臓器移植自体が間違っていたと判断されるかもしれません.

でもその前に,(1)脳死臓器移植は市場原理にもなじまない,(2)脳死臓器移植は医療費の負担が大きい,(3)臓器提供された人たちのQOLの問題がある,ことなどから,A案によって脳死臓器移植が加速したらさまざまな難題が噴出する可能性があると思われますが.

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