学力とは

今日は一日中パソコンに向かっていました.

前期試験の問題を作ったり,後期の授業準備をしたり,広報活動の一環で学院のホームページを一部更新したり,単著の原稿を書いたり,などなど.

夏休みに入ると,学生さんの姿もまばらで,またいつもと違った雰囲気の学院で新鮮な気持ちになります.

さて,年収の多い世帯の子どもほど学力は高い傾向にある,という文部省委託研究の結果がニュースサイトで流れていましたね.

教育に注ぎ込めるリソースが潤沢なほど,学校教育以外にも塾や家庭教師などの学習機会を子どもに提供することができますから,そういう機会に恵まれない子どもよりも高い学力を獲得しやすいのでしょう.

でも,ニュースでいう学力ってそもそもなんなのでしょう?

いくつかのニュースサイトをざっと巡回してみたところ,はっきりとした定義は見あたらなかったのですが,おそらくテスト結果を学力と呼んでいるようだ,ということはわかりました.

もし,その読みが間違っていなければ,テスト結果がよい=学力が高い,あるいはテスト結果が低い=学力が低い,という関係性が成りたつことになります.

研究は操作定義が前提ですから,しょうがないのでしょうけども,テスト結果=学力というならば僕の素朴な感度にはうまくフィットしません.

僕が教育にたずさわっていて,「この学生は学力が低いなぁ」と感じるときは,テスト結果が低いときでも何でもありません.

僕は,知らない知識・技術に対して,いきなり「どうしてそれを学ぶ必要があるのですか?」などと平然と問いかけるような学生に出会ったときに,「もしかしたら,学力が低いのかもしれないなぁ」と感じます.

というのも,そういう問いは,自分にとって未知の知識・技術を学ぼうとする力よりも,その価値を測ろうとする動機の方が上まわったときに発せられる可能性があるためです.

もっと言えば,未知の知識・技術に対してそのような動機が先立つとき,暗黙の前提としては(1)私は未知の知識・技術の価値を測れる,そして(2)私の測りは間違っていない,ということがおかれます.

でなければ,未知の知識・技術を学ぶ必要性を聞いて,自分にとって学ぶ価値があるかどうかを判断することはできませんからね.

そして,上記のような学生が,この2つの前提をくつがえして,価値を測ろうとする動機を上まわるような,未知の知識を学ぼうとうする力を発揮するのは並大抵ではありません.

だから,僕はこういう構図が学生の言動から読みとれたとき,「憶測や偏見はいけないぞ」と思いつつも,「もしかして・・・\(◎o◎)/!」という気持ちが生じてしまうのです.

もちろん,これは批判的思考を否定しているわけではありません.

僕はevidenceの批判的吟味を重視するevidence-based practiceや,徹底的な前提の問いなおしという思考法を備える構造構成主義の研究者でもありますから,むしろ学生に対しても批判的思考を推奨しているぐらいです.

そうではなく,僕が言いたいのは,自分にとって未知の知識・技術と出会ったら,それを学ぶ必要性を問う動機を持つ前に,「何じゃそれぇ~!もうちょい聞かせてくれや!頼むわ!!!」という好奇心を持てるような学生が学ぶ力のある人なんじゃないの,ということです

価値を測るのはその後でも遅くないよ,と.

そして,テスト結果は,未知の知識・技術を学ぼうとする力によって生じる副産物の1つに過ぎないないんじゃないの,というわけです.

もちろん,ここでいう学生は,いわゆる学校に通う人々のみを指しているわけではありません.

僕も含めてすべての学ぼうとする人たちを,学生といいうるのです.

ニュースサイトの記事からだいぶ話しがそれましたが,もう1つだけ言えば作業療法的に面白いことが指摘されていました.

それによれば,親の普段の行動が,学力に影響するというのです.

ニュースでは,学力が高い子どもの親は,クラシック音楽のコンサートに行く,お菓子を手作りする,などの行動が多く,他方、学力の低い子どもの親は,パチンコ・競馬・競輪に行く,カラオケに行く,などの行動が多い,とされていました.

これって,まさに作業療法でいうところの作業のことですから,作業療法士が作業の専門家だと言うならば,こういう結果に対してどう考えるのか,を表明していく必要があるんじゃないか,と思いました(特に作業科学者は).

「じゃぁお前がやれ!」と言われそうですが,今日はもういろいろ書いてしまったのでそれはまた後日ということで(ほんまか?).

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