別れにさみしさがともなうとき

3月は「別れ」,4月は「出会い」という言葉がぴったりくるシーズンです。

ここん所,最後はほとんど友達のようになった教え子も卒業し,なんだかちょっぴりさみしい気持ちになることが多かったので,別れにさみしさという感情がともなう理由について考えることがありました。

その理由はいくつかあると思うのですが,ちょっとだけ書けばこんな感じ。

まず,ひとつは,日常からの喪失。

つまり,ついこないだまで日常の風景にとけ込んでいた存在を,そこで感受できなくなる。

当たり前のようにそこいたはずのものが,ない。

そう,いつもの存在を不可逆的に感受できなくなる。

別れがそういう自覚をもたらしたとき,おさえがたいようなさみしい感情がともなってくるのではないでしょうか。

逆に,同じようにないんだけども逢おうと思えばいつでも逢える,そういうときにはおそらく別れにそれほどのさみしさはともなってこないはずです。

もうひとつは,関係の非連続性。

当たり前のように受けとっていた関係が,これで終わりだという確信をともなうとき,あるいは本来的に大きく変わってしまうときに,やはりそこにもさみしい感情が到来するのではないかと思います。

他方,別れがあってもつながりを感受することができていれば,それほどさみしい気持ちにはならないはずです。

そして,日常からの喪失と関係の非連続性がさみしい気持ちを起こすためには,その前提として,別れの対象にポジティブな関心を投射していたこと,が決定的に大切であろう,と考えられます。

OT教育を例に考えれば,「学生に少しでも成熟してもらいたい」「立派な作業療法士になってもらいたい」という強い関心を向けていたからこそ,たとえば卒業式などによって日常からの喪失と関係の非連続性を受けとったときに「メチャうれしいけど,さみしいなぁ」と思うわけですね。

退職や転勤などの状況にかちあえば,なおさらそれが強くなるはずです。

そして,そういった感度が,事後的にみれば人生に華を添えることになりるのです(その逆もあり)。

ちなみに,もし「不幸になれ!」とか「はやくあの世に行っちゃえ!」などネガティブな関心を向けていたら,日常からの喪失と関係の非連続性は喜びに変わるはずです。

うん?

「そんなお前はどうなんだ?」ですって?

はい。

今まで以上に,うれしくてさみしい卒業式でした。

その理由はまた後ほど(ほんまか!?)。

さて,4月になれば「出会い」がキーワードになります。

いったいどのような感情が起こり,そしてそこにはどのような諸条件が潜んでいるのでしょうか。

おいおい考えていきましょう。

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