東京都青少年健全育成条例を考える

東京都で過激な性描写のある漫画の販売規制を定めた条例が可決されましたね。
すでにいろんな立場の方が議論されているので、門外漢の僕がいちいち口出しすることではないかもしれませんが、ちょこっとだけ。
今回いろいろな議論が行われているなかで、おそらくもっとも疑いがたい思考の始発点は「あらゆる表現と理解は志向相関的だ」というものではないでしょうか?
志向相関性とは、価値、意味、存在は関心、目的、身体、欲望に応じて規定される、という原理です。
たとえば、蛆虫。
「この蛆虫ヤロー」と言われたら、普通は悪口です。
お米のなかに蛆虫が入っていてたら、普通は気持ち悪いはずです。
だけども、糖尿病性潰瘍に関心のある一部の医療者にとって、蛆虫は貴重な治療道具です。
つまり、蛆虫の価値、意味、存在は人々の志向性によって規定されるわけです。
価値、意味、存在の成立条件を考えるうえで、これは疑いようがあるかと考えるとおそらくないはずです。
僕たちは、あらゆる事柄の価値、意味、存在を、自身の志向性(関心、目的、身体、欲望)に応じて受けとらざるをえないのです。
以上が了解できれば、人々の具体的な志向性を抜きにして、不健全な漫画があらかじめ成立することはない、ということがわかると思います。
どんな性的描写であっても、どんな残虐な表現であっても、それぞれの人々の志向性を通過してはじめて有害で不健全なものとして到来するということです。
よくわからない人は、奈良にいるシカにエゲツないと感じるエロ漫画を渡した場面を想像してください。
たぶんシカは、渡したエロ漫画をむしゃむしゃ食うだけで、夜のオカズにすることはないでしょうし、不健全なシカに育つこともないはずです。
何らかの表現を有害で不健全だと思うのは、そう思った人の志向性に照らしてのことであり、それ自体が有害で不健全であるという意味ではないのです。
もうちょい言えば、あらかじめ表現規制の対象になるような存在そのものが悪であると見なせる漫画はない、ということです。
東京都青少年健全育成条例改正が信念対立の渦中に落ち込んでしまったのは、論理的に考えれば誰もが了解できるような思考の始発点から丁寧に議論されていないからです。
その最たる例が、都議会の質疑応答で発せられたらしい「小説は読む人によって様々な理解がある。その点、漫画やアニメは誰が見ても読んでも同じで一つの理解しかできない」というやりとりです。
志向相関性を了解できればわかると思いますが、原理的に考えるならば、漫画もアニメも小説も志向性に応じて受けとらざるを得ませんから、いずれも様々な理解が成立すると考える他ありません。
もし、この発言を行われた方が、本気で漫画やアニメは「漫画やアニメは誰が見ても読んでも同じで一つの理解しかできない」と思っているとしたら、それは漫画やアニメがそのようにできているのではなく、自分自身の志向性が単にそうなっているだけかもしれないと内省すべきでしょう。
漫画やアニメは誰が見ても読んでも同じで一つの理解しかできない」から規制対象で、小説はそうじゃないから規制から外れるという発想は、そもそもの思考の始発点から妥当でないのです。
では、この一件はどうすればよかったのでしょうか?
おそらくは誰もが了解できるであろう「あらゆる表現と理解は志向相関的だ」という思考の始発点から考えるならば、(1)「何のための条例改正なのか」を広く開示し、(2)大勢が了解できる条例改正の目的・視点を検討を通じて定め(志向性そのものの妥当性を問いあう)、(3)その目的・視点から改正案を提示し、(4)それの妥当性を広く問いあっていく、というものになるでしょう。
そうやって改正案を煮詰めていけば、今回のような内容にならないでしょうし、不毛な信念対立に陥ることもなかったでしょう。
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