冷静な対応とは何か

東日本大震災以後、刻々と変化する現状に対する「冷静な対応」が呼びかけられています。
では、そもそも冷静な対応とは何でしょうか。
どうすれば僕たちは冷静な対応に至れるのでしょうか。
そう問われると、いまいちよくわからないことも少なくないように思います。
というわけで、冷静な対応と思える条件について考えてみました。


たとえば「発癌リスクは200ミリシーベルト以下で増加しない」と言われて、素直に聞きいれる人がいたとします。
あるいは「暫定規制値を超える食物を飲食してもただちに健康被害は生じない」と言われて、鵜呑みにする人がいたとします。
このとき、私たちはこの人たちを冷静な対応だと思えるでしょうか。
おそらく、これはちょっと違うんじゃないか、と感じるのではないかと思われます。
というのも東日本大震災以降、放射線基準値の大幅な緩和が行われており、それそのものが恣意的だと考えられるためです。
では逆に、上述したような専門家や政府の見解に対して、はなから「信用できない」「うさんくさい」とリニアに思ってしまう人たちがいたらどうでしょう。
これもおそらく、冷静な対応とは感じないのではないでしょうか。
公式見解に対する解釈の論拠が、やはり聞き手の恣意性に委ねられているためです。
そう考えると、提示された情報に対して素直に聞き入れる対応も、否定する対応も冷静さに欠いていると考えることができます。


と同時に、ここから僕たちは「情報の恣意性に自覚的かどうか」という点が冷静な対応の条件のひとつだ、ということができそうです。
情報が恣意的だということは、情報提供者と情報の受け手の観点ひとつで意味が変わってしまう、ということです。
このことに自覚的であれば、それを素直に聞き入れたり、あたまから否定したりする非冷静な対応に陥りがたくなるでしょう。
ただそれでとどまるようでは、冷静な対応とは言いがたいと思います。
なぜなら、そのままでは判断の保留という対応から抜けきらず、それでは煮え切らない対応という感度を持たせるためです。
つまり、冷静な対応に求められるのは、情報の恣意性を引き受けたうえで、何らかの判断を示すことができる、というものになるでしょう。


ではどのように判断すれば、冷静な対応という感度に至れるでしょうか。
先ほど僕は、情報は恣意的であり、それは観点の所在によって規定される、と言いました。
つまり、冷静な対応と思わせるには、特定の情報に対してどのような観点からみればどういう意味になるか、ということに配慮が行きとどいているようにみえる必要がある、ということになるでしょう。
上記の例でいえば、「確率論的観点からみれば暫定基準値を超えても直ちに危険ではないと言えるのだろう」とか「安全の最大化という観点からみれば、事故後に放射線基準値が変更された事態はうさんくさくみえるだろう」というように、異なる観点をふまえることができているかどうかが問われるわけです。
もちろん、それだけではおそらく不十分です。
冷静な対応と思わせるには、上記のように配慮をめぐらしたうえで、おおぜいが「なるほど!」と思える判断を下せるかどうか、にかかってくると思われます。
なぜなら、さまざまな観点から情報を解釈できると気遣いしたとしても、その後の判断がたとえば「海外に逃げよう」とか「土のなかにもぐっちゃえ」などの内容であれば冷静さに欠いた対応だ、という感度を呼び覚ましてしまうだろうと推測されるためです。


以上をふまえれば、自他に冷静な対応という感度を呼び覚ますには以下の条件を満たす必要があるといえそうです。
(1)情報の恣意性に自覚的である
(2)異なる観点に応じた情報の意味に配慮できる
(3)(1)と(2)を踏まえたうえで、情報に対する共通了解可能な判断を示せる


さて僕は冒頭で、冷静な対応とは何でしょうか、どうすれば僕たちは冷静な対応に至れるのでしょうか、という2つの問いを立てました。
ここまでの考察に賛同できる限りにおいて、前者の問いに対しては(1)から(3)の条件を満たした振舞が、冷静な対応であると答えることができそうです。
また、後者の問いに対しては、(1)から(3)の条件を満たせるよう振舞をコントロールしていけばよい、という答えになると言えるでしょう。


もちろん、上記の3つの条件が絶対に正しいという保証はどこにもありません。
この考察もまた(1)や(2)に抵触するためです。
だけども、曖昧模糊としたまま冷静な対応を心がけようとするよりも、その感度を呼び覚ましうる要件の可能性を押さえておけば、いくぶんスマートなかたちでそれに至れるのではないでしょうか。


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