経験年数のうえに胡座をかいてはいけない

一部に経験年数が過剰に重視される風潮がある。

経験年数の重みが活きるということは、確かにある。

例えば臨床の場合、「死にたい」という患者に、入院を勧めるか、再発を疑うか、聞き流すか、寄り添うか、などといったことは、ある程度の経験年数がないと判断がつかないかもしれない。

また研究でも微妙な論理展開のさじ加減やいまいちなデータの活かし方といったことは、ある程度の経験年数がないと判断がつかないかもしれない。

もちろん上記の例には例外もある。

では経験年数で期待されることは何か。

おそらく、経験年数がたくさんある人には、研究や臨床の現場で培われた豊かな「経験知」が期待されていると思う。

経験知は、現場を通してしか体得できない知識であり、研ぎ澄まされた研究あるいは臨床感覚、言葉で説明しがたい熟達した技術が含まれる。

長い年月をかけなければ得られない深みのある経験知を推し量る材料として、経験年数が重宝されているのだ。

しかしここにはひとつの落とし穴があることも、忘れてはならない。

身も蓋もないことをいえば、経験知は経験年数だけでは深まらないのだ。




例えば20年間の経験年数があっても、ボーッと過ごしていたらたいした経験知は培われない。

逆に、わずか1年でも20年に匹敵する経験知が培われることもあるだろう。

経験知は「時間×密度×才能×努力×運」によって深みが増していく。

時間は単なるひとつのファクターに過ぎず、密度の高い経験、生まれもった才能、地道で多大な努力、そして運によって豊かな経験知が育まれるのだ。

もちろん時間をかけて皮膚感覚で受け取った経験がないと微妙な色彩を感じ取れないことはあるし、ゆっくり時間をかけないと理解できないことや修得できない技術もいっぱいある。

だけど経験年数が過剰に重視されるような一部の文化には、眉唾で関わった方がよいだろう。
もちろんこれは、年長者を敬うことや、新人を大切に育てることと、まったく矛盾しない。

どういうことかって?

その理由は、酒でも飲みながらゆっくり考えてみるとよいだろう。