何のためにそれ自体に身をゆだねるのか

もういっちょ勝手にリレー記事です。

この記事では織田さんの実存と縁にフォーカスします。

テーマは表題にあるように「何のためにそれ自体に身をゆだねるのか」です。

時間がない人は、最後のまとめにスッ飛んじゃってくださいwww。

これまでの記事は以下です。


織田さんは以下のように書いています。
「目的」や「手段」は価値を産むのです.「こうあるべきだ」とか,「こうしたい」とか,「こうでなければならない」とか,「これが正しい」とか,「すべて間違っている」とか・・・.「いい悪い」「好き嫌い」「正しい間違い」などと断定し,判断してしまうのです・・・.そう,ちょうど今,わたしがのどの痛みをネガティブなものとして,なくさねばならない,あってはならないものとして,対峙しているように・・・.
 わたしたちが,もしそれから自由になりたいと思えばどうすればいいのでしょう?
〜中略〜
1つの方法を提案するのならば,「それ自体」に身を浸してみてはいかがでしょうか?「わたしが」という主語をいったん置いといて,関係性に身を浸すのです.それは,どうするのか?
〜中略〜
その一瞬,一瞬に,身を任せてみませんか?「縁」に身をゆだねてみませんか?そして,一瞬,一瞬の「それ自体」にのみこまれてみませんか?
これはなかなか面白いとらえ方です。




縁はぼくたちが自分の意志でコントロールできるものではありません

むしろ、向こうからやってくるようなところがあります。

それ自体は、ぼくたちが認識したとたん、そうでなくなってしまいがちです。

ぼくたちはすぐ「〜だと思う」「〜したい」「〜すべき」「〜が良い」などとラベリングしちゃいますからね。

それ自体は、ぼくたちが存在に気づくとスルリと抜けおちてしまう。

だからこそ、あえて縁ととらえることで、ぼくたちがコントロールしようとするのではなく、それに身をゆだねてみましょうよと提案しているのだろうと思いました。



で、そもそも何でこんな議論になっているのか。

理由は、それ自体に身をゆだねることが、病で苦しんでいる人を癒せる可能性があるからです。

それをマインドフルネスやマインドフルネス作業療法と呼んだりしますが、ぼくたちの研究を含めていろんな先行研究がその可能性を示唆しています。

それ自体とは感じるままに感じることです(ぼくはそれを現象と表現しています)。

縁に身をゆだねることで、それ自体に身を浸す(現象を味わう)。

それを感覚的に受けとってもらいたい。

上記の議論にはそういう意図があるように、ぼくは思う。

そして、そういう臨床のあり方が、作業療法の本来の可能性のひとつじゃなのかな。
あっいけね。

ついうっかり目的と手段の話にしちゃったよ。

それじゃ現象にとどまれねぇよ、と書いたばかりなのに。