人物評価と欲望

人間は社会的存在である、という考え方の萌芽はアリストテレスに求められます。

彼は、ポリス(共同体)を志向する自然的本性を解いたわけですが、それによって人間の社会的存在という特質を言い当てた最初の人に位置づけられているわけです。

アリストテレスも自覚的であったように、社会的存在としての人間という特質はある前提をもっています。

それは、ぼくたち人間が分業を前提にしている限りにおいて「社会的存在」だというものです。

自力で生きてのたれ死ぬことも可能なので、いつでもどこでも社会的存在というわけではないのです。

さて、社会的存在としての人々は、共同体の発展のために共通の利益に資する「善き人」を求めます

日常的に自覚的・無自覚的に行われる人物評価は、社会的存在としての人間の宿命のようなものです。




ここで完全に客観的な「善き人」はいるのか、という問題が発生します。

原理的に言えば、そんな人はいません。

ぼくたちは、何らかの欲望に応じて人物評価せざるを得ないからです。

例えば、「信用できない」という人物評価は「嫉妬」や「貶めたい」という欲望に彩られたものかもしれません。

あるいは「能力が高い」という人物評価は「都合よく利用したい」とか「仲間にしておきたい」という欲望の現れかもしれません。

「この人は本当に『善き人』だ」という人物評価でさえ何らかの欲望に応じたものです。
評価は必ず何らかの欲望に相関的に行われており、徹底的にポジショントークまっさかりなのです。

なので、どんな高尚な理屈を述べても、人物評価は欲望にまみれていると理解しておく必要があります。

人物評価を喜々として話す人がいたら、その言動の背後にある欲望をじっくり見定めるとよいでしょう。

でないと、思わぬところで足下をすくわれかねませんよ。