共通了解可能性を確保するためには一度きちんと相対化したほうがよい



以下は、信念対立研究やっているとよくであう認識のあり方です。

哲学で育った人は科学を軽視しがちです。

他方、科学で育った人は哲学を軽視しがちです。

個別の事例を重視してきた人は、統計的推論を軽視しがちです。

他方、統計的推論を重視してきた人は、個別の事例の価値を軽くみつもりがちです。

臨床畑の人は研究を甘くみがちです。

他方、研究畑の人は臨床を甘くみつもりがちです。

教育に一所懸命な人は、社会を低くみがちです。

他方、社会にもまれて生きてきた人は、教育の可能性を軽んじがち。

ぼくたち人間は、ポジショントークが得意なようです。


「他人の立場にたって考えろ」ということは誰でもできます。

しかし、人間は自身の立場に応じて世界を構成するしかありません。

なので、基本的にポジショントークから抜けられません。

「他人の立場にたって考える」のは、実のところ誰でもできることではありません。

誰でも簡単にできることでは、ないのです。

苫野くんが指摘しているように、「人それぞれ考え方が違う」という主張は、帰謬法といってあんまり評判がよくない。
でもね、他人の立場にたって考えられるようになるためには、一度徹底的に相対化したほうがよいんですよ。

心の底からいろんな考え方があると味わっていないと、たぶん価値観の異なった人たちが共通了解に立つことはできない。

哲学の歴史をふり返ると、共通了解可能性を確保する強力な哲学は帰謬法の洗礼を受けた後にでてきているけど、きっとそれはぼくが上記で書いたことと無関係ではありません。

わかりあうためには、しっかり相対化しなきゃ駄目なんです。

まぁ相対化がゴールになったら、それはそれで別の問題が生じるけどもw。