知と人の評価はわけた方がよいもう一つの理由



知と人の評価が混同されると、知の価値が過小に見積もられることがあります。

例えば、教育学の名著「エミール」を書いたルソーは、子どもが5人生まれたのになんと育児放棄しています。

教育の原理を解き明かしているにもかかわらず、自らは子育てに自信がもてず手放してしまったわけです。

また彼は、政治哲学の名著「社会契約論」を書いていますが、なんと露出狂でした。

ルソーは著作でよい社会の在り方を原理的に解き明かしているものの、自らは反社会的行為に走っていたのです。

ルソーその人の評価は、ぜんぜんダメダメです。

ここで知と人の評価がごっちゃになると、どうなるか。




おそらく、「自分で教育できないヤツの教育論なんて信用できない」「露出狂の考える社会の原理なんて使えない」などと判断する人がでてきて、彼が構成した知の価値が過小評価されるでしょう。

知と人の評価を混同すると、知の高い価値を自分の価値に拡大解釈することによって、おかしなことになると論じました。
でも問題は、自尊心の肥大によって判断が狂う、だけではないんです。

人類の繁栄に貢献する知を構成できる人は、変わっていることが少なくありません。

知と人の評価がごっちゃになると、変態という人柄のせいで知の価値が過小評価されることがあるのです。

これはやっぱ避けた方がよい。

ルソーは世界人類の発展に貢献する知を作りだしましたが、彼の人柄のせいでそれがないがしろにされた世界をソーゾーすると空恐ろしいものがあります。

というわけで、凄い知は変人が作ることがあるので、その恩恵を人類が受けるためにも、知と人の評価はやっぱわけたほうがよいのです。