〇〇なんて役に立たない(だから、ダメだ)



世の中には言論の自由がありますから、基本的に好きなことをいうことができます。

批判ももちろんOKですが、妥当な批判を行うにはその意味を考える必要があります。

例えば、「〇〇なんて役に立たない(だから、ダメだ)」という批判はどう考えますか。

〇〇には、皆さんが思いついた概念を以下のようにテキトーに放りこんでださい。
  • 単なるテクニックなんて役に立たない(だから、ダメだ)
  • 哲学なんて役に立たない(だから、ダメだ)
  • 主観評価なんて役に立たない(だから、ダメだ)
  • 理論なんて役に立たない(だから、ダメだ)
  • 客観評価なんて役に立たない(だから、ダメだ)
  • 学校で学んだ知識なんて役に立たない(だから、ダメだ)
さて、こーした批判の意味を考えるとは、役に立つという判断の基準を考えることに他なりません。

原理的に考えると、その判断基準は「関心」に求めることができます。

関心はニーチェがいう「欲望」、フッサールがいう「志向」、メルロ=ポンティがいう「身体」などと同型の意味であり、それに相関的に世界観を構成しうるナニかです。

哲学原理で言うと志向相関性。

これは、意味・価値・存在は関心・目的・欲望・身体という志向性に相関的に規定される、という考え方です。


例えば、ぼくがいま趣味ではまっているジョギング。

これは役に立つかどうか。


ジョギングが役に立つかどうかは、関心の彩りによってけっこー微妙に変わります。

例えば、膝が痛いから安静に過ごしたいという関心をもつ人にとって、ジョギングは痛みを引きおこすきっかけになるから「役に立たない」と感じるかもしれません。

他方、体力を向上させたいという関心をもつ人にとって、ジョギングは身体を鍛えるきっかけになるので「役に立つ」と感じることでしょう。

また、忙しいから余計なことはしたくないけど、健康に良いことがしたいという関心をもつ人にとって、ジョギングは時間を奪う活動だからあまりしたくないけど健康によいから続けるというような感じで、ジレンマを味わいつつ「役に立つ」と思うはずです。

役に立つかどうかは、関心におうじて規定されるのです。

原理的に考えると、ここが役に立つかどうかを判断する基準の底板です。

この理解にたつと、「〇〇なんて役に立たない(だから、ダメだ)」という批判は関心を考慮していないという点であまりにもナイーブすぎることがわかるはずです。

役に立つか、立たないか、の判断は関心とセットで考えないとできないからです。

できないんです。

この世のほとんどの事柄は、ある関心からみれば役立つかもしれないけども、別の関心からみたら役に立たないかもしれない、という仕方で存在しています。

なので、単純に「〇〇なんて役に立たない(だから、ダメだ)」とドヤ顔でいう人がいたら、批判として成り立っていないとやさしく教えてあげるようにしましょう。