信念対立解明の最下層にある基礎とはなにか?!


信念対立事例をみると、必ずといってよいほど、人びとの意見が食いちがっています。

例えば、患者は「医師の態度がぞんざいだった」とクレームをいったかと思えば、当の医師は「やるべきことはやっているので問題ない」と反論をいったりするわけです。

意見が食いちがう理由は、各人がそれぞれの個別の経験から意見をえているからです。

経験はユニークな構造をもっています。

それは、人間なら誰でも経験しているにもかかわらず誰もが異なる経験をしている、というものです。

経験は誰でもしているのに、ひとつとして同じ経験はないわけです。

つまり、意見はそれぞれ異なる経験をベースに構成されるため、人びとの意見は必ずといってよいほど食いちがうのです。

信念対立は、それをベースにしているので、明示された意見にフォーカスすると解けません。

解けないのです。

そして上記の構造をひとたびとらたら、それを解く方法はひとつしかないことに気づきます。

いったいなにか。




結論から言えば、個別の意見にフォーカスすることはいったんやめて、それの基礎をとことん深くほり進めることによって最深部にある層をとりだしていく。

原理的には、これしかありません。

それを実際にやってみると、次のような解にいきつくことになります。

異なる経験から異なる意見が構成される最下層の基礎では、必ずといってよいほど「〜にとって」という仕方で経験から意見が生成されている構造があらわれる、というものです。

人それぞれ経験が違う、そこから生まれる意見も違う。

だけど、「〜にとって」という仕方で連関するかたちで現れることは共通しているのです。

上記の例でいえば、「医師の態度がぞんざいだった」が「私(患者)にとって」、「やるべきことはやっているので問題ない」が「私(医師)にとって」に連関するかたちで現れていることに気づくわけです。

ぼくたちの意見は必ず「〜にとって」という連関からしか現れないならば、信念対立を根底から解消する原理は「〜にとって」ということそれ自体を共通了解可能なもにする以外にない、という話にいきつきます。

こーした考え方は古くはプラトンにも認められるし、近代以降でいえばヘーゲル、ニーチェ、フッサールなどがクリアに論じています。

そして、それを技術を含めるかたちで示しなおしたのが、信念対立解明アプローチです。

信念対立を解く原理的技法として、信念対立解明アプローチはかなり深いところまで攻めているので、あとはそれを定着させる仕組み作りが必要だろうと考えているわけです。