知の評価と人の評価



研究者や臨床家が狂う条件のひとつとして、「発信した知識に対する評価」と「人物評価」をごっちゃにして受けとる、というものがあります。

意外にそーゆー人って少なくないので、ぼく自身がそーならないように注意しなきゃなぁと感じています。

研究活動に一定の評価がともないはじめると、雪だるま式に褒められたり、尊敬されたりする機会が増えます。

ここで得られる肯定的評価は本来、その人物に対するものではなく、発信した知識に対するものです。

同時に、知識を発信すると大なり小なりどこかで傷つく人がいるので、とーぜんのことながら否定・批判される機会も増えます。

否定的評価は本来、発信した知識に対するものでなければなりませんが、ここで最初のねじれが生じます。

否定・批判する側の問題、否定・批判される側の受け取り方の問題の相乗効果で、人格攻撃の要素がスルリと入ってくるのです。




人格攻撃された側はもちろん傷つきますから、自尊心を保つために他者からの肯定的評価(賞賛・尊敬・崇拝)に注意を払いはじめます。

ここで、次のねじれが起こります。

「発信した知識に対する評価」の高さを、自分自信に対する「人物評価」の高さとして読み替えてしまうのです。

自尊心を保つために、そーなってしまう人がいるのです。

またこれは、ほとんど無意識で生じます。

自分に対する人物評価として知に対する高い評価を知らず知らずのうちに解釈できるようになると、どんどん自尊心が高くなり、そーすると言動にもパワーがみなぎります。

そーゆー人が好きな人も一定数いるから、その人たちが熱心なフォロワーになって熱気につつまれながらどんどん勘違いが進みます。

修正がきかなくなるほどにまで増長するのに、それほど時間がかかりません。

かからないんです。

悲しい事態に陥らないようにするために、研究者や臨床家は「発信した知識に対する評価」と「人物評価」を切り分けて受けとるようにしましょうね。

多くの場合、高い価値があるのは、人ではなく知にあるのですから。