方法的禁句のススメ



最近、「意味のある作業」「作業の意味」「自分らしい作業」などの表現をよく見かけます。

障害をもつ当事者からはじまった作業療法の原点を考えれば魅力的な表現ですし、作業療法の目指すべき方向性としてはおそらく外していないとも思いますし、キャッチフレーズとしても便利な表現ではあろうと思います。

実際、ぼくも使用している表現です。

だけども、いろいろな実践報告を読んでいて気づいたのですが、この表現が作業療法士に「思考停止」を引きおこすマジックワードになっているケースがあるってことです。

つまり、作業療法の実践報告で「意味のある作業」などの表現がでてきたら、そこから先の洞察が思うように進んでいかない。

作業療法実践で起こった出来事を、 「意味のある作業」「作業の意味」「自分らしい作業」などの表現でくくってしまうことが、ある種のゴールになっているような節がある。

大切なのは個々の作業療法実践において、自分らしいとは何であり、作業にどう折りこまれていったのか、また何をもって自分らしい作業と言えるのか、意味とは何でありいかにして作業に付帯していったのか、作業の意味はどう立ち現れて経験されてるのか、といったようなことを、しっかり分析していくことだ、とぼくは思います。

そうした分析になかなか至らないのは、上述した表現を構成する概念の本質を捉えきれていないためではないでしょうか。

よく考えてみてください。

そもそも、意味って何なんでしょう?

そして、作業とは?

また、自分らしいとは?




そうした問いに対して曖昧模糊とした感度を抱いた状態で、これらの概念を組み合わせて使用してしまったら、おそらく個々の作業療法実践に対する洞察は進みようがなく、大ざっぱな考察しか行えないでしょう。

そう、 おおよそのケースで「意味のある作業」「作業の意味」「自分らしい作業」などの表現は、考察の視点として大ざっぱすぎて、そこから先の展開では機能しなくなるのです。

それでは、個々の作業療法実践を通した作業療法の深化など望むことはできません。

ではどうするか?

ぼくはもちろん構造構成主義者として、言葉狩りのような野暮ったいことはしません。

だけども、個々の作業療法実践を通して、「意味のある作業」「作業の意味」「自分らしい作業」などの洞察を深めて有益な知見を得るという目的を達成するために、あえてこうした概念の使用禁止にして考察していくとういことは、けっして無駄ではないと思っています。

いうなれば、方法的禁句

いままで「意味のある作業」「作業の意味」「自分らしい作業」などという便利な概念で一括りにしてきた出来事を、ほかの概念を駆使して言い当てていくことによって多様な実態をつかみ出し、洞察を深めて知見を深化させていく。

このときのポイントは、「意味のある作業」「作業の意味」「自分らしい作業」などの表現を都合よく使うのではなく、その本質に迫る分析を行い、考察を展開していく点に狙いを定めるきることです。

それによって、以前よりも洞察が深まったようであれば、その後に必要に応じて「意味のある作業」「作業の意味」「自分らしい作業」などの便利な表現を再投入すればよいのです。

方法的禁句と普通の禁句の違いは、出来事の洞察や分析を深化させることができれば、ターゲットとなった概念を復活させてもいい、っていう点にあります。

最終的には、どのような概念を使用してもよいのです。

しかしその可否は、そこにとどまらず、洞察の深化によって丁寧な分析と考察を展開できるかどうか、にかかっているのです。