多数決よりも上位の公準


一徳くんが指摘している通り、民主主義は広く浸透している割にひどく誤解されていると思います。

民主主義は方法のひとつに多数決をもちますが、実のところその上位に公準がおかれています。

それは「自由」です。

すなわち、民主主義は、他人の権利を侵害しない限りにおいて、個人が自分の好きなように幸福を求めることができる、という公準を最上位においているのです。

それは以下の書籍でも明瞭に表れています。


民主主義は、異なる意見を持つ人たちが自由に自身の心情を表明することができます。

当然の結果として、様々な意見の対立が生じることになります。

お互いに自説をゆずらないならば、いつまでたっても合意形成にいたりません。

なので、皆で十分に議論を行ったうえで、最後は多数決でマジョリティの意見にしたがう、という方法が採用されるわけです。

ところが、多数決はそのやり方によって、民主主義を終わらせることができます。

その最たる例が、かつてのドイツです。

ドイツは有名なワイマール憲法によって高度な民主主義体制を構築しました。

ところが、ドイツが混迷しているときに、力強く方向性を示すヒトラーが率いるナチス党が誕生し、徐々に勢力を拡大していき、ついにはドイツで与党になりました。

で、ヒトラーは民主主義の方法である多数決を利用し、民主主義から独裁主義へとシフトチェンジさせました。

その後、ドイツは戦争へと突き進み、ついには人類史に残る厄災と破滅に至りました。




本来、民主主義は独裁主義への深い反省から生まれたものであるにもかかわらず、その方法のひとつである多数決によって独裁主義を生みだすことができるのです。

ところが、民主主義の底板には、多数決によってもたらされる弊害を防止するための公準が設定されています。

それが、上述した自由です。

つまり、本来の民主主義は、多数決の結果が「他人の権利を侵害しない限りにおいて、個人が自分の好きなように幸福を求めることができる」という公準に反する場合、それをリジェクトできる構造になっているのです。

特に、言論の自由は民主主義が民主主義として機能するために重視されており、たとえ多数決で決定された後でも個人がいつでも反論できる可能性に開かれている必要があるのです。

民主主義は多数決を最重視していませんし、同調圧力によって個人を抑圧するものでもありません。

むしろ、民主主義はその底板に、「他人の権利を侵害しない限りにおいて、個人が自分の好きなように幸福を求めることができる」という公準を設定していることから、各人の自由の相互承認をめがけていると言えるのです。

残念ながら、ぼくたち人類は今のところ、民主主義を除けば独裁主義しか社会を統治する術をもっていません。

民主主義は約300年前に誕生したばかりであり、独裁主義はそれよりも悠に長い歴史をもっており、ともすれば簡単に後者にふれがちです。

ところが、独裁主義の歴史は悲惨の極みです。

ぼくは、民主主義の正確な理解とアップデートが必要であると考えています。