恣意性の権利



民主主義はひどく誤解されているし、完成しているわけでもありません。

けど現状をかんがみると、希望ある地平をめがけるためには、いまいちどそれの基本から確認していく必要があります。

多くの人が理解しているようで理解できていないけども、民主主義は最上位に他人の権利を侵害しない限りにおいて、個人が自分の好きなように幸福を追求することができる、という自由の公準を定めています。

つまり、ぼくたち人間はお互いに自身の欲望を開放できるけども、それは他人の欲望に対して不可逆的に損害を与えない場合に限る、というわけです。

では、他人の権利(欲望の開放)を侵害しなきゃ、個人はどんな欲望も開放する権利があるのでしょうか。

そーした問いに対して、池田清彦先生は欲望の開放は能動的なものに限ると明快な理路を与え、それを「恣意性の権利」として定式化しています。

これは、自由の公準を適切に機能させるために、とても大切な理路です。





恣意性の権利というと、難しいことに感じるかもしれません。

しかし、これは赤ん坊などの一部の例外を除いて、自分の言動は自分の自由で、他人の言動は他人の自由であるという考え方であり、とてもシンプルなものです。

かりに、受動的な権利を認めると、他人に愛される権利とか、他人から尊敬される権利などを容認することになって、他人の言動をコントロールしなければならなくなります。

そうなると、最上位の公準である他人の権利を侵害しない限りにおいて、個人が自分の好きなように幸福を追求することができる、が成立する可能性を確保できない。

だから、受動的な権利は一部の例外を除いてリジェクトされ、欲望を開放する自由は能動的なものに限局されるわけです。

ぼくたち人類は、とても大きく言うと、統治システムとして独裁主義と民主主義しかもちあわせておらず、歴史をふまえると前者の未来は高い確度で戦争と破滅をもたらすと考えられます。

もちろん、民主主義もひどい誤解から機能不全に陥っているので、このままでは人類に希望をもたらすような新たな夢を見ることはできないけども。

そーした事態を避けるために、自らの日常生活のうちに自由の公準、恣意性の権利を浸透させていきましょう。